遠くから見てるのは、少しイタイ。
ミルクのススメ
ハードな練習の合間、少しの休憩の時間だった。
荒い息のままファンタを煽るリョーマの側に、ぬぅっと大きな影ができてリョーマはそちらを見上げる。
目の前に牛乳の瓶が二本差し出され、カチンと触れ合った音がした。
「今日はまだ、飲んでなかったな」
そこにいたのは乾で、レギュラー復帰した今でも、ときどき部員の体調やアドバイスなどのことはしている。
逆光とともに僅かにきつい口調で言う乾に、リョーマはあからさまに眉を顰めた。
「別に背なんか高くなくてもテニスに支障ないし、このままで良いっスよ」
「じゃあ、身長は別として、カルシウムはとったほうがいい。越前の場合はファンタをよく飲むからね、炭酸飲料は骨を溶かすし、カルシウムの摂取は大事だ」
ため息混じりにウンザリとした様子でリョーマが言うと、乾は眼鏡を押し上げながら尤もらしい正論を並べ立て、なんとかしてリョーマに牛乳を飲まそうと企んだ。
しかし、それでもリョーマは牛乳を飲む気にはなれない。
「魚食ってるし、いいっスよ」
そう素っ気なく言うと、まだ何か言いたそうな乾を無視して、ファンタを片手に持ったまま、コートを出て行ってしまった。
「やれやれ…」
乾はため息を吐いた。
リョーマは中学一年生としては平均的な身長となっているが、青学のレギュラー陣のなかでは唯一の一年生ということもあり、一番小さい。
だから一日二本の牛乳を義務付けられたのだが、リョーマ自身牛乳は嫌いだった。まったりとした舌触りや、あの不思議な甘さが苦手で、実際にはあまり飲んでいない。
「飲まなくったって、デカくなるときはなるし…」
ぶつぶつと口の中で呟きながら、乾から逃げるようにコートを出て来たリョーマは、休憩が終わるまで、その辺の木陰で休もうかと思っていた。
木の幹に寄り掛かるように座り、ふぅとため息を吐いてふと上を見上げると、枝にひらひらとした白いタオルが風で揺れているのが目に入った。
「あれ、誰かのタオルかな?」
きっと干していて忘れたのだろう。
リョーマは取ろうと、立ち上がって背伸びをしながら手を伸ばしてみたが、届かない。そんなに高い位置にあるわけではないのだが、リョーマの短身で取るには高すぎた。
せめて、菊丸ぐらいあれば、手を伸ばして届いただろう。
妙なところで短身の不便さを実感してしまい、リョーマは不機嫌そうに顔を顰めた。
「あれ、越前君。どうしたの?」
不意に聞きなれた声が後ろからして、リョーマは反射的にそちらを振り向いた。
「不二先輩」
一体何しに来たのか、不二がいつものような癖のある笑みを浮かべてやって来た。リョーマは僅かに目を見開く。
「何してるの?手塚たちが探してたよ、そろそろ練習始めるって」
「あそこにタオルが引っかかってたんで、取ろうと思ったんですけど…」
不二に問い詰められて、背が低くて取れないなどとは言いにくく、リョーマは木の枝を指差しながら説明したが、最後のほうは言葉が淀んだ。
その様子にクス、と不二が笑った。
「届かなかったんだ」
「…っス」
不二の含んだような笑みを浮かべた言葉に、リョーマはぷいとそっぽを向いてしまった。ますます不二が笑う。
「菊丸先輩なら取れるんでしょうけどね」
「確かに。僕もホンの少し届かないや」
リョーマが上を見上げながら言うと、不二も考えるように腕を組みながらタオルを見上げながら、小さく息を吐く。
「そうだ。越前君、ちょっと良い?」
「はい?」
不二は何かを思いついたように、声を出してリョーマのほうへ向きかえった。
きょとんとリョーマが不二を見上げた。
「越前君、取れそう?」
「あ、もう少し右…っス」
今度は不二がリョーマを見上げるような形になる。
不二の肩に足をかけて座り、不二の頭に手を乗せてバランスを保って、リョーマは手を伸ばしていた。
不二の提案とは肩車。
菊丸がギリギリ届く程度なら、リョーマが不二の肩に乗れば取れるだろうと思った不二は、リョーマを抱きかかえて、肩に乗せたのだ。
アンバランスな体勢に、最初はリョーマも戸惑ったものの、すぐに落ち着いた。
「この辺?」
「あ、はい」
僅かに移動して、位置を調整して改めて訪ねる不二にリョーマは小さく頷く。
少し手を伸ばすと、今度はひょいと簡単にタオルを取ることができたリョーマは、ふぅと息を吐いた。
「取れました。下ろしてください、先輩」
「OK」
不二を見下ろして言うと、不二はリョーマの足に手をかけた。
するりと不二の前を滑るようにリョーマを下ろして行き、胸のところまで下ろすと、ふと不二は手を止める。
「先輩?」
すぐに下ろしてくれなかった不二を訝しげに思ってリョーマが訊ねると、不二はにっこりと笑った。
「その辺が手塚の視線だと思うんだけど、どう?高いでしょ」
言われて、リョーマははた、とした。
確かに手塚と同じくらいで、リョーマがいつも見ている視線より三十センチ近く高い。
けれど、何故不二がそんなことを言うのか分からず不二を見ると、不二はにっこりと綺麗な笑みを浮かべた。
綺麗な不二の笑みに、ドキとリョーマは思わず見とれてしまう。
一度意識すると、止まらなくなって、先ほどまで何気なく触れていた不二の髪の香りが、急に気になるようになった。
ふんわりとするような良い香りだと思った。
(あの人は、不二先輩に抱きつくとき、いつもこれを感じてるんだろうか)
そう思うと無性に腹が立つ。
「不二先輩…」
「ん?」
リョーマの考えていることなど分かっていないのだろう。不二はリョーマの顔を見上げると、急に視界が暗くなった。
「!」
額に感じた柔らかい感触。
不二は柄にもなく目を見開いた。
不二の額に触れたのは紛れもなくリョーマの唇。その証拠に、リョーマの顔がぼやけるほど近くにあるし、何より額に触れる感覚がそれと告げている。
こういう言いかたをするのも変だが、突然キスをされることには、結構慣れている。不二の恋人兼クラスメイトが、よくしてくるからだ。
けれど、まさか自分よりも二つ年下の後輩にそれをされるとは、思いもしなかったのだ。
「ふーん、背が高くなると先輩にこういうことが出来るのか…」
唇を離したあと、リョーマは感心したように呟いた。どこか口調が楽しげだった。クスリと小さく笑う。
「不二先輩?何驚いてるんスか」
目を見開いたまま、黙り込んでリョーマを凝視する不二に、リョーマはひらひらと手を振りながら呆れたように訊ねると、不二はハッとした。
「普通、いきなりされたら驚くって」
「こんなのアメリカじゃ挨拶の一部にも入りませんよ。どうせなら唇にもしましょーか?」
「ここはアメリカじゃなくて日本でしょ」
一度我に返ったら、不二はマイペースだ。
何事もなかったかのように会話をしながら、すとん、と抱きかかえていたリョーマを地面に下ろすと、こつんとリョーマの額を小突いて笑う。
「さて、そろそろ行かないと手塚に走らされるね、行こうか」
不二はにっこりと笑って、コートのほうへと足を向けて歩き出した。リョーマもそれに続く。
「あ、そうそう。不意打ちのキスは英二のほうがうまいよ、まだまだだね」
不二は思い出したように足を止めて、少しだけ後ろを付いてくるリョーマのほうを振り返る。
クスクスと楽しげに笑って、リョーマの十八番を奪いつつ、からかうような口調で言ってやった。 予想外の言葉に、リョーマはぱちりと目を見開いた。
コートにつくと、既に練習は始まっていて、普段だったら真っ先に不二を抱きしめてくる菊丸の歓迎はなかった。
代わりに乾が、声を掛けてきた。
「遅い!グラウンド十週!……って手塚が言ってたぞ、二人とも」
「ちょっと遅れただけなのに…」
余裕の笑みを浮かべる不二から漏れた不満の言葉に、そのとおりの感情がこもっていたかどうか。
乾はデータノートを広げながら、リョーマの顔をちらりと見る。
リョーマはその視線に気づいたのか、ちらりと乾の顔を見て、いいにくそうに口を開いた。
「明日から…牛乳、飲みます…」
小さなリョーマの呟きに、乾は眼鏡の下で僅かに目を見開いていた。
リョーマはそのままグラウンドへ小走りで駆けて行った。
「不二、俺は越前に牛乳を飲ませるように言ってくれと頼みはしたが、落とせとは言ってないぞ」
ノートにペンを走らせ、眼鏡を押し上げると、乾はため息を吐いた。
乾はなんとかしてリョーマに牛乳を飲ませようと、考えをめぐらせていた。
結果、あのワガママな子供に言うことを聞かせるには、物腰が柔らかい割に押しの強い不二が一番だと思って、乾は不二に頼んだのだが、先ほどのリョーマの様子では恐らく不二とリョーマの間に何かあったに違いないと、乾は思った。
もちろん、予想の範囲内ではあったのだけれど。
不二は乾の僅かに責めるような言葉は聞き流して、クスリと笑った。
「乾、“後輩”って、可愛いね…」
「後輩で終わるように、貞操守れよ、不二」
二人は揃って苦笑した。
END