君にしか聞こえない |
| 其の高さは変わってなど居ない筈なのに、酷く遠くなった様に感じる空を眺めながら、今は触れる事が出来ない相手を思って溜息を吐く。 窓から見える空には雲一つ無く、其の穏やかさとは裏腹に心は原因不明の焦りにも似た感情に支配される。 外気の穏やかさは教室の中に充満し、今日最後となる授業も何処か緩やかに進められて居た。 眠気にも似た其の穏やかさの中で教師の声だけが教室に響き、窓の外から聞こえる蝉の声は何処か違和感を感じさせた。 幾ら空が秋の色を出し始めたからと言って気温が急速に下がる訳では無く、温度は真夏の其れと何ら変わり無い物を保っている。 残暑と呼ばれる此の時期の切なさみたいな物が、今の自分の気持ちにも影響を与えているのだろうか、等と自分らしくも無い分析を計ってみては溜息を吐く。 幾らそんな事を考えてみた所で此の心の靄が晴れる事は無く、全く自分らしく無いと溜息を吐いては、黒板に記された文字をノートに書き写した。 声が聞きたい。 顔が見たい。 こっちを、見て欲しい。 別に喧嘩などした訳でも無かったし、何よりも先刻の休み時間迄は普通に話していたのだから、こんな事を思うのは自分でもどうかしているとしか思えない。 其れでも、そう感じてしまうのは不二が足りていないからなのだろうか。 先日迄の夏休みには常に一緒に居た様な気がする。 気がする、と言うのは少し変なのかもしれなかったが足早に過ぎてしまった其の時間が本当に在ったのかと思ってしまうのだ。 思うままに傍に行く事が出来ない今、余計にそう思うとは解っていても、もどかしさはどうする事も出来ず、少し離れた席に座る不二の後ろ姿を見詰めた。 振り向かない後ろ姿、黒板に記されたノートを書き写す度に其の髪が流れる。 其の髪に触れたい衝動を押え付け、未だ終わらない授業にうんざりとしながらも所詮授業が終わったからと言って自分が望むままに行動等出来る筈も無い事は実際、身に染みて良く解っていた。 秘密にしなければならない恋、其れを僅かばかり苦しいと感じる事が無い訳でも無い。 けれど其れを選んだのは間違い無く自分達で、生まれた感情を無かった事に等出来なかった。 苦しくとも止めてしまいたい等と思える筈も無く、又そう思うには余りにも相手の事が好きで仕方が無かった。 足りない、と感じてから数回目の溜息を零し、書き写すのを止めたノートを眺める。 黒板では既に消されてしまった箇所から写されていない文字を途中から書き写す気にもなれず、手にしていたシャープをノートの上に置いた。 黒板の上に設置されている時計に目を遣れば授業が終わるには未だ時間が在り、其の時間の経過の遅さに嫌気が差す。 何時だって傍に居たいけれど、そうする事など出来ない。 其のもどかしさに感じる苛立ちをどうする事も出来なかったけれど、愛しさ故の其の感情を胸の奥にひっそりと隠した。 秘密を持つ事の苦悩と切なさ。 其れでも其の秘密すら大切にしたいと思うのは間違っていないと思う。 自分達が抱える秘密は愛しさ故に、其処に在る事を知っているから。 其れでもやはり感じる淋しさにも似た感情を持て余し、授業を終わるのを待ちながら窓の外に視線を向けた。 「ちょっと急いで部室行きたいんだけど、イイかな」 「ん?イイよ」 最後の授業が終わり、其れに継いで短かめのHRも早々に終わった。 他のクラスに比べて極短いHRを終えた後に、近付いて来た不二が話し掛けて来る。 急ぐ理由は明かされなかった物の、取り立てて聞く様な事でも無いと肯定の返事を返し、鞄を掴んで教室を後にした。 未だ他のクラスがHRを終えていない為に、静まり返っている廊下を走り、勢いを殺す事無く階段を駆け下りる。 背負っているディバッグの所為で些か走り難い気もしたけれど、そんな事はどうでも良い様な気がした。 隣を走る不二の髪が風圧で靡き、揺れる。 其れを視界の端で眺めながら、隣に不二が居る事が嬉しくて思わず笑えば、其れに気付いたのだろう不二が笑った。 誰も居ない校舎を抜け部室に向かう最中、開け放たれている校舎の窓から椅子を引く音が聞こえ、其れを期に走る速度を上げる。 走ってる最中は会話らしい会話も無く、勿論不二に触れる事も無かったけれど其れを不満に思う事も無く唯、どうしてなのか満たされた気持ちになった。 其の余りにも解り易い自分の心情に内心苦笑しながらも、本当に好きなんだから仕方が無いとそう思う。 競う様にして辿り着いた部室の扉を勢い良く開け室内に入り込めば、自分よりも一歩遅れて部室に入った不二が開けたのと同じ様な勢いで扉を閉めた。 大きく響いた其の音に僅かに驚き、思わず振り向けばディバッグを床に放り投げた不二に噛み付く様に口付けられた。 部室に幾つか在る窓から死角になる扉の前で、口付けを交わす。 不二から始められた口付けも気付けばお互いに夢中になって繰り返して居た。 「…声が、聞こえた気がした」 繰り返した口付けに息を乱しながら紡がれた言葉に、目を見張る。 淋しいだとか、触れたいだとか。 そんな事は一言も言って居なかったし、勿論態度にだって出したつもりは無かった筈なのに、不二は自分の思いに気付いたと言うのか。 驚きの余りに動きが止まった自分に不二が咽の奥で笑いながら再度口付け、至近距離から目の奥を覗き込む。 其の瞳が何故なのか楽し気で、思わず自分も目を細め先刻まで触れたいと切に思って居た其の髪を梳けば、擽ぐったそうに不二が笑った。 「不二にしか聞こえない声?」 「違うよ。僕にだけ聞こえる声。其れに驚く様な事じゃ無いじゃん。僕の声だって英二にだけは聞こえてるんだし」 例え言葉や態度に表す事が無くとも、まるで奇跡の様な勘の良さで其れに気付く自分達に思わず笑う。 まるで其れが当たり前の事だとでも言うかの様に紡がれた言葉が、どうしてなのか酷く嬉しくて思わず抱き締めればいきなりの事に驚いたのだろう不二が一瞬身体を強張らせ、其の後に何処か幸せそうに笑った。 君にしか聞こえない。 君にだけ聞こえる。 其の小さくて大きな違いに感じる幸福感に再度唇を軽く触れ合わせ、外から聞こえ始めた人の声に床に放ったディバッグを拾い上げ、部室の奥へと向かう。 数歩先を歩く不二の背を眺めながらやっぱり好きだと感じた瞬間、ゆっくりと不二が振り返り、笑った。 |