悲しい日



降りしきる雨の音が煩い。
増々強くなる風の音がまるで耳鳴りの様だ。
そう思った時には彼に抱き締められて居た。
今まで考えて居た事も、拭い切れない不安も、きっと知って居ただろうけど彼は何も言わなかった。
耳には風雨の音しか聞こえない。
其れでも抱き締められ、感じる体温の中で着衣越しに彼の鼓動を感じる。
耳で聞く音とは違う、感じる其れに不意に泣きそうになったけれど、其れとは裏腹に涙は出て来なかった。
抱き締められて感じる温かさに下ろしたままだった腕を彼の背に廻せば、緩やかに抱き締める腕に力が込められ髪を撫でられる。
其の優しく穏やかな動きに彼の首筋に鼻先を埋めれば、同じ様に彼が首筋に鼻先を埋めて大きく息を吸い込んだ。
解っているのだ。此の不安も恐怖も自分だけが感じている訳では無いと言う事を。
其れでも払拭しきれない其の恐ろしさに何も言う事が出来無かった。
仮に口を開いた所で何を言えば良いのかも解らなかったし、何より起こってもいない今は未だ仮定に過ぎない話を出来る筈が無かった。
例えば其れを口にした所で何の解決にもならず、また口にした瞬間に恐れていた事が現実になってしまいそうで恐かった。
未だ現実には起こっても居ない事で、こんな風に身動き出来なくなる自分を女々しいとは思えども、心の中に浮かぶのは恐怖と戸惑いだけで他には何も無い。
今、自分を抱き締めている彼と此の温もりが紛れも無い現実だとは解って居るけれど、恐怖に駆られてしまった自分には「何時か手放さなくてはいけないもの」として認識している様に思う。
其れでも感じる彼の体温は自分を包み込み、けして離れる事は無かった。
考えていても仕方が無い、なかなか払拭しきれない感情を心の隅に追いやる様にして細く息を吐き出せば強張った身体が僅かに弛緩する。
「……何か眠い」
息を吐ききり、気持ちを落ち着かせる為にゆっくりと息を吸い込めば、自分に一番近い位置に居る彼の匂いがした。
考えたくない事柄から逃避する様に眠りたがる身体、其れを自分で解っていて尚、其の事を彼に告げると、そうした方が良いと髪を撫でられる。
眠ると言う行動が逃げに繋がっている事は良く解っていたけれど、眠って何も考えずに居る事が今は一番良い気がした。
立った位置から数歩先に在る寝台まで手を引かれ移動し、其処に腰掛ければスプリングが軋んだ音を立てた。
其のまま寝台の上で横になると、同じ様に彼も寝台に横たわり静かに抱き寄せられる。
寝台に移動する迄に消えてしまった彼の体温が再び自分の身体を包み込むのに安堵を覚え目を瞑ると、其れを見たのだろう彼が額に唇を寄せた。
温かな温度、柔らかな感覚。
其れを感じて閉じた目蓋を持ち上げれば真直ぐにこちらを見詰める彼と視線が絡み、何を考える訳でも無く、何処か重く感じる腕を持ち上げ其の輪郭をなぞり唇に指を滑らせれば、彼が穏やかに目を細めた。
今迄に何度も見た其の優しい笑みに、僅かに落ち着いた様に思えた胸の痛みを再度感じ、衝動に駆られるままに口付けると別段驚く風も無く、唯穏やかに抱き寄せられた。




思うままに口付けを続け、気付けば肌を重ねて居た。
激しい雨音も窓硝子を叩き付ける風の音も、突き上げられる度に漏れる嬌声を消す事は出来ず、絶えず聞こえる寝台が軋む音と粘着音に混ざり部屋の中に響いている。
肌を重ねているのにも関わらず、胸の痛みは相変わらず消せないままで、其れが酷く悲しかった。
まるで涙腺が壊れたかの様にバカみたいに泣きながら、其れでも止められない涙が目の端を伝い、シーツに染みて冷たくなって行くのを何処か他人事の様に感じて居た。
躯の内側と肌で感じる彼の熱に安堵し、翻弄されながらも此の皮膚の下には複雑な感情が蠢き、其れが恐くて縋る指先に力が篭る。
セックスの最中に泣いたのは初めてで、睫毛に絡んだ涙の所為で酷く重く感じる目蓋を持ち上げた中で見た物は全てが滲んではっきりとは見えず、其れが余計に恐怖感を肥大させている様にも思えた。
「……不二、もう余計な事を考えないで、俺だけ見てよ」
揺さぶられながら不意に聞こえた悲しい声に意識を引き戻される。
動きを止め真直ぐにこちらを見詰める彼の其の声に、一度は持ち上げた目蓋を閉じ背中に廻して居た腕に僅かに力を込めれば、シーツの上で乱れる髪を緩やかに梳かれた。
其の指が酷く優しくて思わず謝罪の言葉を口にしたけれど、其れは最後まで紡がせて貰えずに彼の唇に塞がれて、消えた。
肌で、躯で、心で感じる彼の熱。
再度始められた律動の中、彼の存在を確かめる様に其の名を呼べば緩やかに抱き締められ。
自分は唯、此の温もりが過去の物になる事が酷く悲しかったのだと気が付いた。
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