背中




「じゃあ、行ってくる」
そう言った不二が対戦相手の待つコートに向かい歩き出したのを、黙って見つめる。
試合に臨むその背中が、振り返った事は一度も無い。
もう2年余り前から、その振り返らない背中を見送ってきた。
耳鳴りのようにも聞こえる大歓声の中心に進む不二を見て、何故だかそう遠くない過去が蘇る。
俺はずっとこの背中を見てきた。





テニス部に入部して暫く経った頃、似たような体格だからと言う理由でストレッチの相手になった。
それが無ければ特別不二と親しかった記憶は無い。
どちらかと言えば物静かだと形容されていた不二とまともに話をするようになったのは、それからかも知れない。
それ以来、どちらからと言う事も無くストレッチの相手にとお互いに近づき、先輩達の目を盗んで下らない話をしては小さな声で笑っていた。
開脚して座る不二の背中を押しながらつまらない冗談や噂話をすれば、クスクスと笑う不二の背中が震えるように動くのが面白くて、自分とそう変わらない大きさのはずなのにそれが何故か可愛いとさえ思う。
けれどそれを口にした事は無く、自分だけの小さな悪戯を見つけたような、同時に何処か後ろめたいような感情に戸惑った。
ただ、笑いながら背中で返事を返してくれる不二と一緒に居られる事が、本当に子供だった自分にとって単純に嬉しかっただけなのかも知れない。


慣れない練習で疲れ切った重い足を何とか前へと運びながら、不二の家との分れ道までたどり着く。
疲れたと口にしながらゆっくり歩いたのは、本当はそれだけじゃない事に自分自身気付いては居なかったし、もちろん不二も知らないはずだった。
手を振って道路を渡り、歩き始めた不二の後ろ姿にまた声を掛ける。
「また明日!」
「うん」
振り返りながら不二もまた手を揚げる。
再び背中を見せる不二を見て、自分もまた歩き出した。
たぶん此処が限界。そう自分の中にラインを引いた場所でもう1度振り返り、もう少しで見えなくなるだろう不二の背中に視線を向けた。
まさか彼も振り返るとは思っていなかった。
なんとなく合ってしまった視線をどうにか誤魔化そうと手を振れば、微笑んだ不二も同じように手を振った。
其処が最後に手を振る場所になったのは、たぶんその日からだろう。
声を掛けなくとも振り返ってくれた事が、どうしようも無く嬉しかった事を今でも覚えている。


1年生がレギュラーを決めるランキング戦に初めて参加した時。
不二がレギュラーを決める試合に何とか間に合うようにと走った。
コートの脇で準備をする不二と対戦相手の先輩を見つけて駆け寄る。
もう間もなく試合が始まると言う時間で、不二はすぐにコートに向けて歩き出した。
「不二、頑張れ!」
コートに向かう後ろ姿に向かって声を張り上げると、不二は一瞬立ち止まったものの振り返る事はしない。
その背中はいつも見ていた彼の其れでは無く、隠し切れない緊張感と、戦う相手へのプレッシャーを併せ持った強さを見せる物だった。
見た事の無い不二の背中を突きつけられた時、自分の中に今まで知らなかった感情が混じるのを覚えた。
切ないような、淋しいような、恋しいような。

そう、たぶんその時。
俺は不二に落とされた。





これが全国大会で不二の最後の試合。
もしかしたら最後になるかも知れない其の後ろ姿。
其処に在るのは、誰一人として入る余地の無い不二だけの空気。
2年以上前、その背中を見送った時と同じように、コートへ向かう不二を息を詰めて見つめる。
二人の関係が2年前とは変わった今も、変わらないその姿が恋しいと思う。
きっとあの日と同様に、自分の中で忘れられない彼の背中になるだろう。