確かな事










『……英二の事、好きなんだ』





さらりと言ったつもりはない。
言うか言わないか、天秤にかけたままゆらゆら揺らした心。伝えた事で破綻するかもしれない関係を考えると、そう簡単に口に出すことは出来なかった。
本来なら、抱く事さえもおぞましいとされる気持ち。

恋心。

悩んで、眠れぬ日々を過ごして。
自分はおかしいのではないかと思って、それでも止められなくて。
……苦しかった。
英二の事が。
好きで、好きで。
同じように好きになってもらいたくて。
けれど、怖くて。
切なくて泣きたくなる程に胸を痛め、そっと封印してきた想い。
手を伸ばせば触れられるぬくもりを、笑いかければ返る微笑みを、柔らかな声を、そのどれもを失くしたくなくて、気持ちを押し殺していた。
でも。
出来なかった。
どうしても、出来なかった。
想いは募るばかりで日毎夜毎に増していく。細く浮ぶ月が膨らみを増すようにして想いも止めどなく膨らみ、欠ける月とは反対に零れる程に強くなっていく。
好き、という、感情。
理性は感情を抑えきれなかった。
悩みに悩んで、その存在を失う事も覚悟して伝えた想い。
彼は一瞬怯んで。一瞬、目を伏せ。
それから、まっすぐな視線で答えをくれた。






『俺も不二の事、好きだよ』








あれから数週間。想いを伝えてから、ほんの少しだけ距離が近付いた気がしていたのは、本当に気のせいだったのだろうか。
教室での内緒のクスクス笑いも、帰りに二人だけで帰ることが増えても、それは今までよりもほんの少し仲良くなった『友情の延長』でしかないように感じられ、それがもどかしく心を苦しめる。









日が落ちるのがだんだんと早くなって、夏も終わりに近付いているのを感じさせる、9月の夕暮れ。コートを飛び交う黄色いボールが見えにくくなると、部活は終了を告げられた。
物足りなさを感じながらのろのろ部室に戻り、汗をかいたジャージから制服に着替えて鞄を手に取る。
ちらりと見れば、英二は先に着替えを終えて他の部員たちと御喋りしながら大きな声で笑っていた。
「じゃあ、お先に」
軽く微笑んで皆に挨拶し、視線だけ英二に走らせる。それを合図にして、じゃあ俺も帰ろうかな、なんて言ってニンマリと笑う。
二人揃って部室を後にすると、ゆっくりとした速度で少しの遠回りをしながら公園を廻って帰る、この順路が日課になっていた。
夕暮れの公道には既に人影もない。街路樹が微かに揺れ、まだ夏の気配を残した風が肌をくすぐった。
「今日さ〜、大石がさ〜……」
帰り道の話題はいつもの如く部活や学校の出来事が多く、明るく喋る彼から話題は尽きない。たまに相槌を打ちながら楽し気な彼の横顔を見つめる。
屈託なく笑いながら話す彼は、あの告白からもあまり変わった様子は見られなかった。

彼は「好き」の意味を、ちゃんと理解しているのだろうか。

そう考えるようになって一週間が過ぎた。
笑いかける笑顔も、話し掛ける声も、何ら今までと変わりがない。それは本来なら嬉しい事の筈なのに、一緒に居ても何処かに違和感を感じる。
決して拒絶や拒否ではないけれど、何処かに含まれる何か。戸惑いや迷いと言い切るには弱すぎる感情。そんなものが入り交じって見える表情は、多分自分でなければ気付かないだろう。伊達に2年以上も友達と云うポジションに、そして今は親友以上と云う位置に居る訳ではない。
けれど、想いを伝えると云う行為は、果たして良かったのか。少しの居心地の悪さは我慢しなければ成らないのか。
現状を打破したくて、必死で伝えた。
変わりたくて、変えてしまいたくて。けれど、伝えても変わっていない現状に溜息を吐く。これじゃ意味が無い。
それなら、それぞれの道を選んで歩けばいいのだから。

「不二、聞いてる?」
不意に視界にひらひらと英二の手が舞う。見ると、少し不満げな表情の彼がこちらを見つめていた。
「……聞いてるよ」
答えると、英二は一層不満げな表情を強くした。
「聞いてなかった」
「聞いてるって」
「いんや、聞いてなかった。ぼーっとしてたね。不二、ちゃんと俺の話聞いてないじゃん」
言われて、足を止めた。2、3歩先に行きかけて、英二も立ち止まる。
灯ったばかりで鈍く光る街灯の下、まっすぐに立ちながら身体半分だけ振り向いた英二を見つめる。
遠く、行き過ぎようとする夏を惜しむかの様に哭く蜩の声が耳に入る。それと示し合わせたかの様にして、救急車のサイレンが不協和音を奏でていて。それが耳障りで、思わず顔を顰めた。

「……不二?」

「ちゃんと……」

「え?」

「ちゃんと聞いてないのは、英二の方じゃない?」

思わず零れた言葉に、英二が小さく息を呑む音が聞こえる。





平凡な日常を照らし出す街灯の下、立ち止まって動けない。


声に成らない想いを胸に。

どうやってこの気持ち全部、伝えたらいいんだろう?

心なんて、触れるものじゃないから。見えるものじゃないから。
この想いの全てなんて、伝えきれない。





しばらく立ち竦んだままで英二を見つめる。薄暗さが英二の明確な表情を隠していたけれど、少し俯いた彼の口唇が真一文字に結ばれ、必死で言葉を捜している事を感じさせた。
「英二」
「何?」
名前を呼べば少し驚いたように挙げられた顔。何故だかバツの悪そうな色が混じって居るのが見え、鞄を握る手に知らずに力が篭る。
「英二の事、好きなんだけど」
「解ってるよ、俺も不二の事、好きだよ」
言えば英二はそう言って表情を和らげた。無邪気にも見えるその表情と口調。
まるで子供が自分を一番好きと言ってもらいたくて強請っているのに答えた、そんな感じがして。そんなんじゃないんだと言いたくて、まっすぐに英二を見据えたままで言葉を繋げる。
「好きの意味、解ってる?」
「解ってる……つもりだけど……。俺……、不二のことすげぇ好きだし」
「嘘だ」
「不二……」
「言葉になんかできないけど、何をどう言っていいのかわからないけど、英二が言う『好き』の意味が軽すぎるように思えるんだけど」
「……っ」

言葉に詰まり、彼は再度俯いた。蜩が哭き止んで辺りに静寂が訪れる。
しばらくの沈黙の後、英二はポツリと呟いた。

「………だ」

「え?」

それから言淀み、俯いたままの彼は黙ってしまう。
心臓が、痛い。一体、彼は何を呟いたのか……。次の言葉を待ちながら、ただ彼の跳ねた赤い癖っ毛が、優しく風にそよぐのを視界の中に入れていた。
やがて意を決したように彼が顔を上げると、吐き出されたコトバ。

「怖いんだよ。もっと不二に近付きたくて、俺、変になる」

くしゃりと顔を歪めた英二が、吐き出した言葉。それは、衝撃だった。
泣き笑いのような笑顔が向けられ、英二がその言葉を口にするのにどれだけ必死なのかを知る事が出来る。少し考えるようにして、英二はその先を続ける。

「不二の言う『好き』と同じ意味で、俺も……ずっと不二が好きだったから。抱き締めたいとか、キスしたいとか、そういう感情で、好き、だから。」

此処でやっと、本当は彼が悩んでいたことを、本当は迷っていた事を、あの時自分が放った言葉を、こうして受け止めて感情を揺らしていた事を知る。
想いは、とうに伝わっていて、御互いに手探りのままで居た事を。
先に告白したのは自分の方。だから僕は心の準備が出来ていて。けれど、気持ちを隠していた英二にとっては、僕からの告白はまさに晴天の霹靂。未だ迷うままの心に、未だ信じられないままの現状に、戸惑っていたことを。
ただ我侭に想いを返してもらう事だけを望み、彼の気持ちを考えていなかった自分に気付いた。
「英二……」
巧く言葉にならないままで彼の名を呼ぶ。
その瞳に、それ以上何も出てこなかった。英二は少し笑ってひとつ溜息を吐き、それから言葉を続ける。
「……ごめん。俺、逃げてたね。不二にはバレるかなって思ってたけど、やっぱそう簡単に考える事なんか出来なくて。どうしたら不二の想いに応えられるかもわかんないし、もし、不二に触れて厭がられたり嫌われたらどうしようって思ったりもして。でもさ、もう逃げないから。不二の事、きちんと、好きだから」


目の前にゆっくりと、英二の手が差し伸べられた。
微かに震えるその手をそっと取ると、いつもは温かな指先が冷たくなっていて。
それで彼の想いの強さを伺い知ることが出来、胸が締め付けられる。

どれほどの勇気を持って、答えをくれたのか。


いつだって彼はまっすぐな応えをくれる。
いつだって嘘偽りない瞳で。




だから、僕は。

英二が好きだ。




「もう、誤摩化したりしない。……逃げないよ」
「うん」



重なった口唇。
あどけない瞳など、もう、出来ない。






何もかもが不確かで。
何だって、確かな事なんてない。

そんなこと解りきっていると言われればそうなのかもしれないと答えるしかないけれど、それでも心の何処かでは信じたがっている。
この、想いは。
この気持ちだけは、否定なんかしない。





確かな事は、それぞれのなかにだけある。